西桂産地のおはなし

西桂町
西桂町のごあんない
西桂町は山梨県東南部に位置し、昭和27年の町制施行により、西桂村から西桂町となりました。昭和35年には境界変更により上暮地と小沼の一部が富士吉田市に編入され、現在にいたっています。

人口約5,000人の町で80%近くが森林で占めており、豊富で良質な水資源に恵まれています。古くから基幹産業として織物業が盛んであり、近年においては健康指向に乗りミネラルウォーターの供給が急成長しています。

「三つ峠からの眺め」

また、最近では、三ツ峠グリーンセンターなど、複合施設なども建設され近県、首都圏から多くの観光客が来町しています。

西桂町は明治27年に郡内地域で最初と言われる甲斐絹改良組合が設立されたことからも、当時の山梨県繊維産業の中心地でした。

しかしそれ以降、その地位は、谷村町、猿橋、富士吉田市に移行していきました。

西桂織物工業協同組合は昭和47年に吉田織物協同組合から独立(当時の工場数351 織機台数1043)。現在においては その数は減少しておりますが、歴史ある組合の自主運営を続けています。

織物製品として、ネクタイ地、洋傘地、マフラー・ストール、座布団地、服地、服裏地などが生産されています。

西桂西桂と織物
西桂は「郡内」地域に含まれており、山中湖を源とする桂川に沿った、耕地の少ない冷涼の土地です。郡内織物の歴史は古く江戸時代に入って絹織物が盛んになりました。

郡内織は外来のものを寛文年間に織り出したもので、「海気」「海黄」と呼ばれて、その種類も『郡内縞』『白郡内』『郡内太織』『織色郡内~別名郡内海気』や『郡内平』というはかま地等がありました。「甲斐噺」という書には、

【郡内領より織り出され候絹、一ヶ年に大概五万匹余も之れ有るべく、これによって郡内のかいこ糸ばかりにては不足の由、但し、白絹の上は、真木・花咲(中略)夏はかま地は、暮地、小沼(西桂町)と申す村より多く織り出す。】

とあって、西桂町のはかま地は、江戸の人士に大人気でがあったようです。耕地の少ない、山間の農村にとって、絹織物の生産は、貴重な現金収入であって、この収入で年貢も金納し、他領から食料を買入れていました。織物の盛衰はそのまま死活問題につながっていました。享保期にはすでに自家生産では桑が不足して他地区から買入れており、約百年後の文化年間になると、一軒で三台・四台と織機をもち、「ハタ織り女」も召し抱えるようになり基幹産業になっていました。「甲斐絹」は元来がカイキと言うのを、初代の山梨県令藤村紫郎氏が、明治期に、産業振興のために、郡内織~カイキを甲斐の特産品とすべく、「甲斐絹」の字を宛てたものだと言われています。

明治時代に入ってからは、郡内海気は玉虫甲斐絹とか、さまざまな色糸を配した縞甲斐絹、思う図柄をタテまたはヨコ糸に書いて染めた絵甲斐絹などが織られましたが、中でも無地甲斐絹は全盛を極めたとのことです。

明治二十年前後は、郡内ではじめての組織団体「甲斐絹改良組合」が、西桂町小沼に設立されました。明治三十七・八年の日露戦争後の好景気によって、ジャガードなどの織機も導入され始め、水車設備の普及などによって、生産量は急増、同三十九年の郡内地区の総生産量は、三九五、六二二疋までになりました。

この頃から、従来の甲斐絹が衰退して白無地を染色した加工甲斐絹が生産されるようになり、絹だけでなく絹・人絹交織甲斐絹・双人甲斐絹などが登場し、人絹を使った織物は値段も安く一般大衆向きの品として喜ばれました。明治末年から大正時代は郡内織物の大変革期でした。

西桂昭和になると、電力が動力源として利用されるようになり、戦前の最盛期を迎えました。袖裏地が好評を博し、朱子を中心に平織・綾織などの服裏地が全国的に確たる位置を占め、八端の夜具地・座布団地・洋傘地と多様な製品が生産され、西桂町でも「茶美紗」とよばれたタフタが織られて、多くは朝鮮に輸出され、郡内織物が盛況であった時期です。

戦時中、軍の要請によって落下傘の生地も相当量納めたといわれてます。戦争末期になると、戦時産業に切り替えられて、指定生産制がとられて操業率は40%におさえられ、若者は戦場へおもむき、織る糸もなく織機は減り、九千三百台は破砕されて鉄くずになってしまいました。戦後の昭和二十二・三年になって生産は再び正常化されましたが、当時の切実な衣料不足からヤミの生産が行われ、ガチャンと織れば壱万円という「ガチャ万時代」を迎えましたがこれも長くは続きませんでした。

しかし現在、申斐絹当時からの技術を受けつぎ、それをもとに西桂町ではネクタイ・マフラー・ストール・洋傘・座布団生地・服裏地・婦人服地等多種にわたる織物を生産し、その技術の高さに日本全国のみならず海外からも注目を浴びています。